もうずいぶん昔「時計仕掛けのオレンジ」という舞台を見ました。
この作品は原作:アンソニー・バージェス
脚本:スタンリー・キューブリック
により1972年にアメリカで公開された近未来の社会を舞台にした映画です。
私が見た舞台はパンクオペラと呼ばれるもので、小栗旬さん主演の舞台でした。
映画より臨場感があったように思います。
目を覆うような場面もしばしば。
内容は主人公を含む若者が奇妙な共通語を使い、乱行を繰り返し、仲間さえも裏切る。
ついには殺人を犯し刑務所送りになります。
ここまではベタなお話ですね。
ここからが考えさせられる内容です。
刑務所送りになった若者を周りの大人は、何とか人間としてまともに生きていけるようにしたいと考えます。
悪賢い主人公もまた、模範囚を装い、牧師に取り入り早く牢を出ようとします。
牢をを出るためには、「人格矯正療法」に協力しろと言われます。
この治療は、暴力とは無縁の「暴力を心から嫌う人物」に矯正するという治療です。
一見すると「暴力を心から嫌う人間」ならいいじゃないかと思いますよね。
しかし、自分の思いもしないことが自分の体の中で起こってしまうことに
だんだん、主人公は壊れていきます。
最後は自分の命を絶つことを選び・・・
観終わったあと、ふと思いました。
この作品は、本当にフィクションなのだろうか?
薬を飲ませたり、装置を使って矯正をしたりしてはいないけど
私たち大人はもしかして、子どもたちを知らず知らずのうちに「時計仕掛け」にしてはいないだろうか?
劇中で牧師が最後に言います。
「見かけはオレンジでも中身が機械では、オレンジとは言わない。実も果汁もあって初めてオレンジと言えるのだ」
私たちは本当に我が子を身も心も一人の人間として育てているでしょうか。
親が思う完ぺきな人を作ろうとしていないでしょうか?
見かけは人なのに中身が機械仕掛けの子どもが
あちらこちらで悲鳴を上げている気がしてなりません。